ゴルバチョフさんの場合。【糖尿病の海外有名人】
ゴルバチョフさんは、既に何年も糖尿病に悩まされ続けているそうです。
ゴルバチョフさんは、ソ連邦の最終的な指導者であり、1985年からソ連共産党書記長としてゴルバチョフ政権を成立させました。
ゴルバチョフさんはペレストロイカを掲げて改革にあたり、1989年にマルタ会談を行って冷戦を終わらせ、1991年にソ連邦初の大統領となりました。
そんなゴルバチョフさんも糖尿病を患っていた有名人の1人です。
ゴルバチョフさんは1934年3月、ロシア南部の北カフカースの農民の子として生まれました。
この地域の自立的なカザーク農民は飢饉と農業集団化による打撃を受けており、抵抗が激しかった地域であり、ゴルバチョフさんの一族も1932~33年の飢饉の被害にあっています。
ゴルバチョフさんの父親はコルホーズ議長でしたが、前述の飢饉にあったことで、二人の祖父も抑圧の犠牲となっており、ゴルバチョフさんは農村出身でしかも抑圧された地域から出てきたという、それまでの軍や治安機関出身者、共産党官僚、巨大な官庁利益を背景としたテクノクラートとは全く違った背景と経歴を持った異色の新指導者となっていきます。
ゴルバチョフさんは、モスクワ大学法学部とスタブローポリ農業大学で学んだ後、1966年にスタブローポリ市党委員会第一書記になりました。
その後、地方党の役員を務めた後、1978年に農業担当の党中央委員会書記に抜擢。
1980年10月の中央委総会において、政治局員に49歳の若さで昇格し、アンドロポフ・チェルネンコ政権下でナンバー2の書記として活躍しました。
そして、ゴルバチョフさんは、徐々に共産党内の地位を固めていきます。
ゴルバチョフさんは、1985年5月にアンドロポフ・チェルネンコさんが急死すると、書記長に選出されました。
すると、すぐに党首脳、閣僚、軍首脳などの人事異動を断行し、共産党官僚政治の打開に取り組んでいきますが、就任直後の1986年にチェルノブイリ原子力発電所の事故が発生。
グラスノスチ(情報公開)に迫られます。
ゴルバチョフさんは1986年、ペレストロイカと称する改革路線をソ連共産党大会で打ち出しました。
1987年には独立採算制を導入し、国内の経済では市場経済の導入は図ります。
外交でも新思考外交を展開。1987年にINF全廃条約を締結し、1988年には新ベオグラード宣言を発表しました。
また、1989年5月には中ソの国交を正常化し、ソ連首脳としては30年ぶりに中国を訪問しました。
ゴルバチョフさんは、このような大胆な改革を実行したため「ゴルビー」といわれて人気者となり、特に東欧諸国ではソ連の改革を機にソ連からの自立、民主化が一気に動き出します。
そして、1989年に東欧革命が起き、同年11月にはベルリンの壁が崩壊してドイツ統一が実現しました。
これを受け、ゴルバチョフさんは同年12月、アメリカ大統領とマルタ会談を行い、冷戦の終結を宣言。
それと同時にアフガニスタン撤退も決断したため、1990年にゴルバチョフさんはノーベル平和賞を受賞しています。
その後、ゴルバチョフさんは憲法を改正して大統領制に移行させ、1990年3月に人民代表者会議においてソ連邦大統領に選出されます。
しかし1991年8月、ソ連共産党保守派のクーデターが発生。
その後、クーデターは失敗に終わり、監禁されていたゴルバチョフさんは解放されたものの、実権はクーデター鎮圧に成功したエリツィンさんに移りました。
それにより、ゴルバチョフさんは共産党解体と党書記長辞任を発表。同年12月には大統領を辞任したため、ゴルバチョフさんは最初にして最後のソ連邦大統領となりました。
そんなゴルバチョフさんは、既に何年も糖尿病に悩まされ続けているそうです。
しかし、高齢にも関わらず、現在でも活発な政治活動を続けているとのことです。
一時期、入院していた時期もあったようですが、今はもう退院しているようですので、これからも糖尿病とうまくつきあいながら元気に暮らしていってほしいなと思います。
糖尿病の合併症対策のカギは「免疫力UP=ブロリコ!」(PR)
糖尿病になって最も怖いのは糖尿病性神経障害や糖尿病性腎症、糖尿病性網膜症などの合併症です。 それらの合併症を防ぐために最も重要なのが「人間の持っている免疫力を向上させる」事と言えます。 そして免疫力を向上させる成分として注目されているのがブロッコリーから抽出された成分「ブロリコ」です。 アガリクス(β-グルカン)の約50倍、プロポリスの1000倍以上の免疫力向上パワーを持っているとされています。
ブロリコに関する詳しい資料のご請求はこちらから